紅葉と歴史、ふれあいのハイク道「城山」
1997/11/21号より
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本城跡の広場にはいわれを示す石碑が

相模と甲斐の国境い
城山
紅葉と歴史、ふれあいのハイク道

 三浦半島を脱出して、津久井郡の「津久井城址」にやってきた。ここは、かつて北条の出城だったところだ。
 見事なまでの紅葉と、古城に残る遺構は、しみじみとした感慨を味あわせてくれる。土地の人々が城山(しろやま)に親しみと畏敬の念を持つ気持ちが、伝わってくるのだった。


北条の出城は
落葉の降る道だった

 津久井湖を横目にチラチラ眺めながら、車は城山大橋を渡る。前方右手の観光センターにパーキング(無料)して、目前の登山口から歩きはじめる。桜の古木が秋色に染まっている。妙なる香りがする。(春の桜もスゴイデス!)。両脇の草むらの中、ところどころにアザミが咲き残っている。「関東ふれあいの道」でもあるハイク道、かつて猛々しい武士たちの往き交った山なのだろうか。
 歩き初めてすぐに太い桧林に入る。儒学者でもあった幕末の津久井の代官が植林したので、名をとってその名も江川ひのき林。ひとつ目の分岐をパスし、次の分かれ道まで歩き左手へ。
 山道はやがてくねくね曲がった急坂になる。こんな時こそ野鳥の声に耳を傾けて楽しもう。左右の分岐点では左へ。
 木洩れ日のゆれる道はなんと心地いいのだろう。さくっ、さくっ…。落葉を踏みしめる。30分程歩いたところで標識に従い右側本城跡方面へ。


三浦一族の津久井氏が
築いたという山城


城山はなだらかなおむすび型
山頂からはぐるり360度の眺望

 本丸を中心に放射状に残る大小10本の空堀や、引橋の跡。この遺構が数百年の年月をつないでいるのだ。さて、津久井郡の津久井という地名は、横須賀の津久井と関係があるのだろうか。
 「築井城」とも書くこの城址は、鎌倉時代初期、三浦大介義明の弟、津久井二郎義行の子、為行が築城し、城下一帯を津久井領としたのが始まりとか。


山頂の一本のモミジ
このために登って来たような気が


700〜800年、大杉は何を見ていたか

 また、戦国時代には北条早雲の家臣、内藤左近将監景定を城主として、この山城を修復したという。
 関東の山城を代表するといわれるこの名城は、遠くから見ると独立峰とすぐ分かる。山頂はふたつの峰から成り、「呂」の字型に城が築かれ、北条は甲斐の武田に備えたのだった。
 本城跡は土塁の中に、バレーコートほどの草地が広がっていた。見事な枝葉を繁らせる一本のモミジ…。これを眺めるために登ってきたと思えてくる。それほどまでに紅葉の頃の期待値が大きい(12月上旬まで)。そして大きな古城碑が、ここの山城のいわれを示している。ぐるり回ると眼下の湖が美しい。
 呂の字型のもうひとつの峰に行く途中、城の用水をまかなったという「宝ヶ池」を通り、樹齢700〜800年の大杉を仰いだ。大人4人がやっと手をつなげる胴回りの巨木に、ただただ胸があつくなる。


烽火台から眺める落葉の煙


烽火台から眺める丹沢や道志の山

 飯縄神社をすぎ、やがて烽(のろし)台跡へ出た。眼下に広がる家々も平和に見える。どこかで落葉を焚いているのか、ひと筋の煙が上っている。が、あの山岳戦史に残る北条1万2千、武田2万で激突した三増峠の戦い(1569)には、ここから烽火が火急を知らせたのだろうか?天候はいざ知らず、道志の山々や丹沢山特有の霧がかかれば早鐘を打ち鳴らしただろう。
 東峰の鷹射場から望む相模平野、眼下の相模川と津久井湖が鏡のように光っていた。
 帰路は西側の城坂を下り、築井城址の碑を見る。「この道が正門だったかも…、勘が働くわね」といいながら、馬屋敷跡、御屋敷跡、家臣団屋敷跡、牢屋の沢など地名の残る所を訪ねつつ、「むかご」を摘み楽しんだ。


★アクセス
電車=JR横浜線橋本駅からバス三ケ木行展望台下車
車 =横横道路から16号線へ、相模原警察で左折、2本目を右折、あと標識どおり



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