
(題字:高橋幸子)
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頼朝の長兄は鎌倉惡源太義平と呼ばれる剛勇の士であった。惡とは″たけだけしい″という意味である。生母は橋本宿の遊女とも三浦義明の息女ともいわれているが、その三浦氏にかしずかれて父義朝の鎌倉館や逗子の沼浜別 荘で育った。歳の時には同族間の争い武蔵大倉の合戦で、父の異母弟義賢(木曽義仲の父)の首をあげ勇名を馳せている。新田義重息女との婚儀はその頃のことであろう。源氏名門の若武者と評判の美少女とは似合の一対であったに違いない。当時頼朝はまだ幼少だったが、生母が中流貴族の藤原氏であったため嫡男として京で育ち歳で元服、歳で従五位 下右兵衛佐に任ぜられた。その直後平治合戦が起こり父義朝は敗れて失脚。長男義平は東国育ちのせいか無位 無冠で過ごし、父が尾張で謀殺された後、清盛の命を狙って潜伏するが捕えられて刑場の露と消えた。歳であったという。 義平の死後余年、頼朝は武家の棟梁として東国に君臨し幕府は草創の緒についた。その大事な時期に彼は伊豆から愛人亀の前を呼び寄せたり、亡兄の未亡人に求愛の書を送るなど、生来の色好みをさらけ出したかに見える。だが、それは単なる色欲の衝動とは考え難い。頼朝旗揚げの呼び掛けに新田義重が直ぐ応じなかった意趣返しで、難題をもち出したのではないか。困惑した義重は急遽息女を毛呂季光に縁付けるが、憤った頼朝は義重を領地へ追い返してしまった。 毛呂季光は大宰権帥藤原季仲卿の孫で、東国に所領をもち早くから頼朝に仕えていた。新田息女を娶ってから一層寵遇を得ている。4年後の文治2年には豊後の国司に推挙された。心掛けが良く穏やかな人柄は頼朝のお気に入りだと吾妻鏡が記している。季光の妻となった新田息女に対し、頼朝がどう接したか勘繰りたくなるが、実はこの縁組は政子の取持ちだったとか。果 たして政子の真意は? |
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