
(題字:高橋幸子)
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建久5年(一一九四)2月2日の夜、義時の嫡男金剛歳の元服式が幕府に於て盛大に行われた。西侍に設けられた式場には源氏一門や重臣らが三列に居並び定刻に義時が金剛を伴って参上すると、烏帽子親の頼朝手ずからの加冠の儀が滞りなく済まされた。金剛は一字を賜り頼時と名付けられている。泰時と改名した年次は不明だが、頼家時代もまだ頼時と名乗っていたようだ。式典が万事将軍家の子弟と同格に扱われたのも、金剛は一般 御家人とは身分が違うと公言している頼朝の、並々ならぬ鐘愛からといえるだろう。元服式のあと酒宴となり、歌舞音曲で祝い気分が高まった頃、頼朝は三浦義澄を側近く招いて「そなたの孫女の中からふさわしい女子を選び、この頼時を聟とするよう」仰せがあった。頼朝のお声掛りで北条・三浦の婚姻が約束されたのである。鎌倉初期はまだ聟入り婚が普通 であった。 義澄の正室は頼朝に敵対した伊東祐親の長女とされるが、政子、義時の生母や頼朝が愛した八重姫の姉に当たり、政子も一目おいている。また義澄は義時の烏帽子親でもあるらしいから北条・三浦はもともと親しい間柄であった。平家に従った祐親は捕えられて聟義澄に預けられたが、頼朝は頼家誕生を機に恩赦を与えた。ところが祐親は前非を恥じ面 目なしと、鐙摺の旗立山から伊豆の方角を望みつつ、自害したと伝えられる。武将の意地を貫いた祐親は曽我兄弟の祖父としても知られるが、多くの子女に恵まれていた。それぞれの生母の家柄によって源平に別 れながらも、九州の伊東氏として後世まで栄えている。 政子も伊東の家系を誇りとしていたので、血族でもある義澄孫女との婚姻に異議ない筈だが、なぜか婚儀は延引し、やがて頼朝、義澄も相次いで世を去った。出生の秘密をもつ泰時の花嫁は、よくよく政子のお眼鏡に叶わねばなるまい。 |
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