(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

 

逗子の沼間法勝寺周辺は源義朝の 沼浜別 亭跡と伝承される


 頼朝の一周忌、義澄の四十九日が過ぎても政情の不安が続き、泰時の婚儀は延び延びになっている。そんな時、京でとんでもない事件が起きた。白昼の路上で鎌倉武士の妻が殿上人の公卿に犯されたという。それを知った夫の武士は公卿を追い詰め斬り殺してしまった。公卿は藤原保季という評判の美青年。父の定長は寂蓮とも称する高名な歌人で、直ちに下手人の処刑を訴え出た。大江広元が武士の処分について義時に意見を求めると、居合わせた泰時は「たとえ武士の面 目が立たぬといっても長袖柔弱の公卿を殺害したとて自慢にもなるまい。しかも白昼路上での殺人は許されぬ 。罪に服するのが道理だと思う」と所見を述べた。広元は若年の泰時の見識に感嘆し落涙に及んだと吾妻鏡は書いている。武士は京で斬首された。  この事件の前年、鎌倉では二代将軍となった頼家が安達景盛の愛妾を強奪する事件を起こしている。そのうえ景盛に謀反の志ありと誅伐の兵を出して政子に制止された。頼家にしてみれば、主君に所望されたら妾の一人や二人差出すのが忠誠だと言いたいのかも知れない。泰時も頼家の蹴鞠狂いを諌めて、僭越なりと不興を買った。頼家は政子がひいきにする泰時、景盛に強い反感をもつらしい。  その頃政子の夢枕に舅の義朝が現われ「自分はいま沼浜の別亭に在るが鎌倉の亀ケ谷に戻りたいので、本邸跡の寿福寺に建物を移して欲しい」とお告げがあった。沼浜亭は三浦領内に在り、頼朝が父の記念に残しておいた邸である。政子には気になる存在だったのか夢想に事寄せて取払いを実現させた。三浦当主の義村も快く応じている。  そのせいでもあるまいが泰時と義村息女との婚儀は急速に話が進み、この秋に祝言の運びとなった。政子は義澄孫女のうち、義村の長女に早くから目をつけていたのである。