
(題字:高橋幸子)
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鎌倉に秋風が立ちそめた建仁2年8月23日、泰時と義村息女の婚儀が西御門の義村邸で行われた。吾妻鏡は「江馬太郎殿、三浦兵衛尉の女子に嫁す」と簡略に記している。女子に嫁すとは男が女の許へ通 う聟入婚を表わしており、当時の一般的な風習であった。ふたりは20歳と16歳になっていた。泰時室に納まった義村息女の生母は土肥氏の出で伊東祐親の孫女に当たり、姑の義澄夫人や政子とは血縁であった。義村は多くの妻妾をもったが、最初の妻土肥氏息女からは長男朝村と泰時室となった長女を儲け、正室の甲斐源氏、一条氏息女からは泰村、光村と毛利季光室となった女子を得ている。生母の出自によって兄弟姉妹が敵味方ともなる時代なので母系の結束は固い。政子は血縁を重んじて泰時の配偶者を選んだのであろう。また同母の妹や血族の女性を自己のブレーンとして掌握し、思いのままに采配を振り、彼女らも吾子を見殺しにしてまで政子の政略に同調した。義村の最初の妻土肥息女も御所に召され、政子の申次役駿河局として裏面 工作に協力し、義村・政子のパイプ役を果たしたようだ。 泰時室は翌年嫡男時氏を生み更に二女子を儲けたが何故か泰時と離婚して同族の佐原氏に再嫁した。内部工作の使命を帯びていたものと思える。晩年は矢部禅尼禅阿と号し孫北条時頼の政権を支えて功があった。 嫉妬の激しさで知られた政子だが、時頼の落胤かと噂された人物やその一家には、寧ろ好意、厚遇を寄せた。北条氏への叛意や反感を抑える手段でもあったろう。また政子は泰時が弟義時と前妻との間の実子であることを人々に信じさせるため、長年に亘り心を砕いてきている。泰時はそれに応えて徳望高い名執権として万人に讃えられ、落胤説のかけらも留めなかった。政子の苦心は死後充分報われた。それにしても極めて自由奔放だった当時の婚姻諸相に目を向けてみよう。 |
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