| 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。 |
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十二所住宅地内の大江広元邸跡碑。
河越邸は近くの泉水地区一帯らしいが碑はない。
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河越重頼の邸は鎌倉十二所にあり、近くに大江広元や梶原景時も邸を構えていた。重頼は武蔵国河越庄を本領とする秩父氏系名族で妻は比企尼の次女である.頼朝の仰せで、息女を京にいる義経の許に嫁入らせることになり、 元暦元年(一一八四)9月14日、花嫁一行が同族の御家人、郎従ら三十余名を従えて、鎌倉山の紅葉を後にした。
そのころ義経は、一の谷合戦に大勝した英雄として持てはやされ、8月には後白河法皇が彼を検非遺使左衛門尉に任命、その勲功に報いている。頼朝は自分の推薦なしに任官することを固く禁じていたから、この無断の任官に激怒し、義経の平家討伐役を降ろした程である。自分の意向を無視した法皇と義経に対する不信感を募らせた頼朝は、とりあえず河越息女を正室に送り込み、有頂天になっている義経をけん制する狙いであったろう。
義経はこの縁組を兄の好意と素直に受けとめたらしい。異母兄範頼の正室は比企尼の長女丹後内侍(安達盛長妻)を生母とする亀御前であり、実兄阿野全成の妻は政子の妹である。自分もこれで頼朝との絆が強まり、わだかまりも解けると考えていたようだ。そして河越息女が到着して間もない10月、院の昇殿を許されて誇らかに八葉の車で参内している。プライドを傷つけられた頼朝の心中、察するに余りあるといえよう。
だが、先発させた範頼軍の平家討伐は遅々として進展せず、将兵の士気もあがらぬ 様子に頼朝は再び義経に出陣を命じた。ここぞとばかり義経は、天才的な戦術を駆使して忽ち壇の浦に平家を滅ぼし、意気揚々と京へ凱旋した。生け捕られた一人、平時忠は清盛の妻時子の兄。「平氏に非ずんば人に非ず」と豪語した人物だが、なんと息女の卿の君を義経の側室にと差し出し命乞いを計っている。これを見習う者が続々現れる有様。白拍子静との出会いもこの頃であった。 (郷土史研究家)
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