
(題字:高橋幸子)
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壇の浦で生け捕った平家の総大将宗盛、清宗父子を伴って義経が酒匂宿に到着したのは元暦2年5月15日であった。北条時政が囚人を受け取りに来たものの義経の鎌倉入りは許されず腰越の満福寺に逗留。切々たる思いをこめて届けた腰越状も兄の怒りを解くことは出来なかった。一方、鎌倉へ連行された宗盛は助命を乞う卑屈な態度が人々に侮られ、散々な不評判であった。頼朝は簾中から見ただけで死罪と決めている。兄と会えば心が通 じると信じていた義経は冷たい仕打ちに腹を立て「頼朝殿に怨みのある者は私について来い」と言い放ち、再び宗盛父子を預かり炎暑の道を京へ戻って行った。近江篠原で宗盛、野路で清宗を斬り、六条河原で獄門にかけた。 義経滞京中の宿所は六条室町にあった。源氏ゆかりの一郭で広い構えの館らしい。正室の河越息女も時忠と息女の卿の君も、皆この邸内に住んでいたようだ。時忠は三種の神器の宝鏡を持ち帰った功で、死罪を免れ能登への配流が決まっているが、一向に出立の気配がない。義経と後白河法皇が気脈を通 じ鎌倉の催促を一日延ばしにしているからだ。卿の君は正室同様に手厚くかしずかれているし、河越息女は頼朝の口利きで早くから許婚として親しんでいるので、上洛後の夫婦仲も至極円満らしい。寵愛第一の側妾静御前は片時も義経の傍らを離れず、ひたすら彼の居室で身辺の世話をしていたと思える。 当時の義経には二十余人の妻妾がいたと言われているが、生来の艶福家でもあった。少年期を奥州藤原氏の許で過ごし、秀衡一門の息女を最初の妻に迎え一女を得ている。奥州の王者秀衡の義経によせる強力な支援は、生母常盤御前の再婚相手、一条長成卿の助力によるもので、秀衡の正室は一条一門の姫君であった。 常磐は千人の美女の中から選びぬかれた絶世の美女である。彼女の歩んだ波乱 の道を辿ってみよう。 (郷土史研究家) |
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