(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

牛若を抱き、今若、乙若を連れて 六波羅へ向かう常磐御前
(京都時代祭の行列より)

  常磐御前が選ばれて仕えたのは近衛天皇の中宮(皇后と同格)呈子であった。呈子は太政大臣伊道が実父だが関白藤原忠通 の養女となって入内した。当時既に忠通の弟頼長は養女の多子(実父右大臣公能)を皇后として入内させていた。多子は類まれな美貌だったといわれ忠通 は負けずに常磐を起用して呈子の身辺を飾ったのであろう。頼長は悪左府(猛々しい左大臣)と畏れられ、万巻の書を読破した大学者でもあった。父の忠実は頼長を偏愛し、兄を差し置き氏の長者という藤原一門のトップの座を譲ったので兄弟の権力争いはエスカレートした。二人は天皇外戚 となるべく競って養女を入内させたが、病弱な帝は御子を得ることなく17歳で崩御。呈子は院号を受け九条院となり、多子は皇太后に列せられた。数年後、若い二条天皇の執心から多子は再び皇后となっている。二条帝に位 を譲った後白河上皇も前代未聞の二代の后に困惑されていたが、二条帝は23歳で早世された。  忠通・頼長兄弟の争いは崇徳・後白河の天皇家兄弟を巻き込んで保元合戦を引き起こすが、頼長側は呆気なく敗れ、崇徳上皇は配流先の讃岐で悶死。頼長は流れ矢で深手を負って無惨な最期を遂げた。  忠通に味方した源義朝は勝者として昇殿を許されたものの、頼長方についた父為義や弟達を処刑する役を命ぜられた上、平清盛と差をつけられるなど心中穏やかではなかった。そんな時かねて想いをかけていた常磐と結ばれた。愛妾となった常磐は今若、乙若、牛若を次々と産み幸せな日々であった。だが、続いて起きた平治合戦でその運命は逆転する。一時は優勢だった義朝も対立する清盛に敗北し、38歳で非業の死を遂げた。 逃避中の常磐は老母が拷問をうけていると知り、自首を決意し別れを告げに立ち寄った九条院の温かい計らいで身なりを整え、三児と共に六波羅の清盛館に向かった。  (郷土史研究家)