(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

一条大蔵卿奥殿の場 大蔵卿と常磐御前

 常磐御前と対面した清盛はその美しさに目を奪われた。幼い三児を道連れにした逃避行で、やつれ果 てたと思いきや却って艶治な風情を増しているのは天成の美質なのであろう。平治物語は、列座の武者も見あきることのない美しさに感嘆の声を惜しまなかったと記している。常磐は牛若を抱き今若、乙若を左右に座らせ、自分の命に代えて老母と子らを助けてほしいと訴える。だが、涙が先立って言葉にならない。傍らから乙若が「泣かでよく申させ給え」と健気に母を励ます様子に一同胸打たれずにはいられなかった。清盛はさきに継母池禅尼の願いを容れ頼朝を許しているので、幼い弟まで殺すことが出来なくなり三兄弟の助命を決めた。そして今若を醍醐寺に、乙若を天王寺に入れて出家させ、乳児の牛若は当分常磐の手許で育てられることになった。  やがて常磐は六波羅に邸を与えられ、清盛が足繁く通うようになる。敗将の妻妾として当然の成り行きであった。常磐をこよなく愛した義朝は都落ちの慌ただしさの中から使者を送り、必ず東国へ呼び寄せると固い約束を伝えたが、間もなく尾張の野間で謀殺されてしまう。亡き義朝への思慕深い常磐は清盛の意に従うほかない自分を責め、どれ程悲しんだことであろう。清盛との間には廊の方と呼ばれる姫君を儲けている。  その後清盛は常磐を上級貴族の一条大蔵卿長成に与えた。長成は池禅尼の息女と縁戚 であり平泉の秀衡とも近しい家柄である。清盛にどんな思惑があってのことか真意は計れない。歌舞伎の「一条大蔵卿」では長成がつくり阿呆を装い、清盛を油断させ常磐や牛若に味方して、源氏再興に尽力する筋立てになっている。虚構の多い歌舞伎の芝居に意外な歴史の真実が潜んでいるのかも知れない。秀衡の許で成長した義経は頼朝の挙兵に参加、平家を亡ぼして京に凱旋し、母と再会することになる。  (郷土史研究家)