(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

宝戒寺に近い小町大路の宅地
門前にある土佐坊昌俊邸趾の碑

 常磐の再婚先、一条長成卿の邸は京都御所に近い一条大路添いにあり、義経はここで育ったといわれる。11歳で鞍馬寺に入ったが仏門の修行に身が入らず、夜な夜な鞍馬山中で天狗から武術や兵法を学んだと伝えられる。亡父の恨みを晴らす胸の内は周知の事となっており、僧兵たちから武芸を鍛えられたと思われ、弁慶との出会いもその頃であろう。出家を拒んだ彼は16歳のとき、清盛の目をかすめ継父長成の計らいで平泉へ逃がれた。平泉には長成の親族藤原基成が、長年陸奥守鎮守府将軍として在任しており、息女を秀衡の正室とし平泉に留まって、秀衡政権の有力メンバーとなっている。長成は基成と秀衡に義経の一身を托した。
 一条邸の付近には平泉の出先機関があった模様で、秀衡は朝廷や公卿、社寺などに莫大な貢物(金、馬、布等)を運び、それぞれと誼を深めていた。金売吉次と呼ばれる人物が頭領となり、多人数の隊商を組み、平泉と京を陸路、海路で頻繁に往復し、双方の文化、物資の流通を計っていたとされる。鞍馬では遮那王と呼ばれた牛若は、旅の途中で自ら元服し、九郎義経と名乗り、吉次や同族で源三位頼政の甥、頼重などの手引きで奥州へ向かった。
 平泉入りした義経は基成の衣川館に住み、早々に秀衡一門の姫君を娶って一女を儲けている。この女子が後に頼政の孫、従五位下源有綱の室となった。頼朝挙兵に駆けつけた時は22歳になっており、秀衡は一族の名門佐藤家の継信、忠信と配下の一団を義経に従わせて、はなむけとした。兄と黄瀬川で感動的な対面をしたのも束の間、二人の心はすれ違い対決の道を辿る。後白河法皇や平泉に支持される天才的軍略家義経は、頼朝最大の敵となった。頼朝は義経暗殺を決意、土佐坊昌俊に手勢を与え京へ送ることとした。昌俊の前身は亡父義朝の無二の寵童で、剛勇少年として知られた金光丸である。 (郷土史研究家)