| 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。 |
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「義経千本桜」堀川夜討の一場面。
土佐坊(左)と派手な衣裳の弁慶
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土佐坊昌俊らが六条の義経堀川館を襲撃したてん末は、直ちに常磐御前の許にもたらされた。六条室町一帯は古くから源氏の拠点で義朝館もその一郭を成し、常磐にとって思い出深い場所である。昌俊が金光丸であることも彼女は承知していた。義朝在世中は常に金光丸が傍らに控えており、常磐にも忠勤を励んだ。義朝敗走の時、関東へ迎える約束を伝えに来たのも、野間での最期を知らせに来たのも金光丸であった。主君を失い出家した彼は、源氏再興を知って頼朝に仕える道を選んだ。そして何故か義経暗殺の役を買って出ている。暗殺は失敗に終わり逃走中捕らえられて、六条河原で梟首にされた。常磐の胸中には複雑なものがあったであろう。
この事件で義経・頼朝兄弟の仲は決裂した。義経は叔父行家と組んで後白河法皇から頼朝追討の宣旨をとりつけ軍勢を募り始めた。鎌倉の頼朝は少しも慌てず念願だった勝長寿院落慶供養を盛大に行ったあと義経行家討伐の軍を動かした。ひとまず黄瀬川に逗留して京の情勢を窺うことにしている。京では法皇の宣旨に激怒した頼朝が、大軍を率いて攻め上って来るとの噂が広がり、パニック状態となった。このままでは収拾つかぬ混乱を招くと察した義経は、味方の多い九州に渡って再起を計ることとし京を退去する決意をした。立つ鳥跡を濁さぬ見事な引き際は、上下の賞讃を得ている。
義経一行には十数人の妻妾が従ったとされるが、摂津の大物浦から船出するまでに脱落者が続出した。彼女達の身の振り方を彼は一人々々手配してやったようだ。大物浦では出港早々暴風に襲われ、乗船は尽く転覆、軍勢は散り散りになった。吉野山に辿り着いた時は聟の有綱と弁慶、平泉以来の忠臣堀景光と静御前の四人に、少数の郎従のみであったという。このあと静御前には苛酷な運命が待ちうけているのだ。
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