(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

鶴岡八幡宮の舞殿(前)と本宮(後)。
静御前は回廊で舞ったが
今は舞踊家が舞殿で奉納する

 義経一行の大物浦遭難は忽ち各地に伝わった。壇の浦で入水された安徳幼帝と平知盛らの 亡霊が海上に出現して、船を沈めたと信じられたからである。その光景は当時の人々にとって現代のテレビ映像より鮮烈な臨場感で、心に焼きついたに違いない。大物浦以後の義経が滅亡の非運から逃れ得なかった事実は、怨霊の祟りを人々に確信させているようだ。
 雪の吉野山で義経との別れを余儀なくされた静御前は、結局捕らえられ白拍子家元でもある母の磯禅師と共に鎌倉へ送られた。静母娘に与えられた宿所は頼朝に仕える雑色(ぞうしき=雑役の従者)安達新三郎清経の海辺の宅であった。清経は雑色ながら頼朝の信頼厚く、義経の六条館に間者として送り込まれていた男である。静はどんな思いで清経と接しただろうか。
 文治2年4月8日、身重の静は頼朝夫妻に強要され八幡宮に芸を奉納することになった。静は天下一の白拍子。伴奏の工藤祐経、畠山重忠は音曲に秀で美男で聞こえた御家人。正に当代最高のイベントといえる。境内は群衆で埋め尽くされた。死を覚悟して義経を慕う静の歌舞に人々は感動し吾妻鏡はその技量と気迫を讃えて後世に伝えた。更に静に対する頼朝の怒りを政子が宥める場面も詳しく書かれていて、恩情ある政子の一面を印象づけた。
 7月29日静は男児を出生したが、直ちに清経の手によって由比が浜に水漬けされた。傷心の母娘は9月16日政子や大姫から多くの餞別を送られ帰洛の途についている。その後の消息は沓として知れず、生死の程は謎となった。一方、義経は神出鬼没の行動で追捕をかわし、3月には伊勢神宮に参拝して黄金造りの太刀を奉納、頼朝を驚愕させている。義経の支持層は厚く後白河法皇をはじめ、有力貴族や寺社勢力も味方であった。懐妊中の正室河越息女は京で安全に匿われているらしい。

 (郷土史研究家)