(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

鎌倉大倉幕府御所は現在の清泉小学校の一帯にあった

 頼朝が西行法師の餞別に贈った銀細工の猫は、掌にのる程の可愛い眠り猫だったという。精巧な細工の逸品に違いない。これなら旅の荷物にもならず、記念の品としてもふさわしいと、頼朝は気を遣って西行に敬意を表したのだ。ところが西行は御所の門を出るが早いか、近くで遊んでいた子供に惜し気なく銀の猫を与えてしまった。人々はその無欲に呆気にとられ、頼朝は軽く一本取られたと苦笑で済ませたようである。西行の人徳であろう。だが別説によると、これは頼朝が自分を眠れる銀の猫にたとえ、奥州藤原氏を金の鼠に見立てた謎がけではないかとしている。奥州の入口には白河の関のほか、念珠(ねず)の関がある。鼠の関がなまったもので、昔から奥州は鼠に例えられ一種の陰語とされたそうだ。咄嗟に頼朝の投げた謎を悟った西行は、銀の猫を無心の子供に与え奥州まで持ち歩かぬことで、謎解きに答えたのであろう。確かに銀の眠り猫は謎めいた寓意を秘めている。西行の平泉での行動は記録がないが、その年の10月に砂金四百五十両が京へ届いているから、勧進の役はしかと果たしている。
 西行が鎌倉を去って間もなく、吾妻鏡は佐藤忠信の京の隠れ家を襲い自害に追い込んだことを報じた。「秀衡近親の者なり」と結んでいるが西行の近親でもあった。西行の俗名は佐藤義清(のりきよ)である。一方、同じく義経の家臣で京に潜み味方の公卿と連絡を取っていた堀景光を生け捕ったことも伝えている。景光の自白から義経が奈良の寺に隠れていることが分かり、五百余騎の軍勢を差し向けたが、既に逃亡していた。京では奈良から戻った義経が法皇や公卿らの厚い支持で、洛中を自在に行動しているらしい。頼朝は強行な手段で法皇を脅かしたため、義経も遂に意を決し妻室、郎従は皆山伏や稚児に身を変えて奥州へ向かうことになった。文治三年(一一八七)二月とされる。

 (郷土史研究家)