(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

高館から望む東稲山。眼下は衣川と北上川の合流点、
桜は山火事で残らず焼けた

 義経一行は無事念珠の関を越え出羽国から平泉へと向かった。一行が辿って来た日本海沿いの北陸道は義経の同情者が多く、頼朝の厳しい探索の手も及ばなかったらしい。歌舞伎「安宅の関」の富樫役が人々の気持を代弁しているといえよう。一行は男が山伏に、女が稚児に姿を変えていたとされるが、女たちにとっては人目を忍ぶ辛い旅であったろう。奥州行に従った妻室は、吾妻鏡の記述から正妻の河越息女に違いないと思えるが、京都で多くの妻妾をかかえていたせいか、諸説紛々で正確なことは分かっていない。ただ奥方が旅の途中で産気づき女子を出産したとされ、各地の領主や社寺等が一行の宿所を提供していたことが推察される。これも秀衡のネットワークが行き亘っていて、要所々々に惜し気なく金品が振る舞われていたのであろう。頼朝がもっとも怖れる奥州の黄金の威力を見る思いがする。
 平泉に到着した義経一行は凱旋将軍さながらの出迎えを受けたという。やがて義経を総大将として頼朝と雌雄を決する秀衡の決意が読み取れる。義経らは平泉に近い衣川の高館に落ち着いた。そこは義経が16歳から6年間を過ごした第二の故郷でもある。折から季節は春の盛りで、館から北上川を隔てて花の名所束稲山の満開の桜を一望することが出来た。当時は山を中心に一万本の桜が30里にわたって植えられ、吉野の桜と競ったという。花どきに平泉を訪れた西行が、―聞きもせず たばしね山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは―と感嘆の詠を残している。義経らはこの爛漫たる桜花を眼前にして、長旅の疲れも忽ち癒えたことであろう。鎌倉から京都、奥州と落ち着かぬ日々を過ごした奥方や、殉死も覚悟ではるばる付き従って来た侍女たちに、やっと与えられた安住の地衣川の判官館。だが、それは束の間のやすらぎでしかなかった。

 (郷土史研究家)