(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

秀衡居館伽羅御所跡の一部分

 北方の王者秀衡は文治3年(一一八七)10月27日、平泉の伽羅御所で急病により66歳の生涯を閉じた。義経は高館から臨終に駆けつけ、既に息絶えた遺体に取り縋って号泣したという。彼にとって父親以上に慈愛に満ちた後ろ盾だった。義経が平泉入りしてまだ一年も経っていない。秀衡は子息たちに義経を主君と仰ぎ結束して頼朝と対決するよう遺言している。だが子息らは兄弟仲が悪く義経を立てて協力することができなかった。頼朝は好機とみて予ての念願である平泉藤原一族の撲滅工作に心魂を傾けた。執拗に朝廷に働きかけ強引な義経追補の勅命を取りつけ、後継者泰衡に迫って館を急襲させた。二百余騎の軍勢を前に、弁慶はじめ股肱の忠臣らの奮戦も空しく敗北。義経は妻子を刺し殺したのち自害して果てた。文治5年4月30日、義経31歳、正室河越息女22歳、幼い姫はかわいい盛りの4歳だった。父重頼を 誅された河越息女は母方を頼らず義経に殉じて節を 全うしたのであろう。
 義経の首はその年の夏、美酒に浸されて腰越の浦に運ばれて来た。和田義盛、梶原景時らによる首実検が行われたが「見る者皆双涙を拭い、両袖をうるおす」と吾妻鏡は記している。義経を裏切り、その首を届けてまで平泉を守ろうとした泰衡だが、余りにも甘い考えであった。頼朝の奥州攻略完遂の決意の前には通じない。朝廷の意向を無視して勅許も得ずに大軍を動員し、忽ち平泉を攻め落とした。一旦は逃げのびた泰衡だが、譜代の家臣にも背かれて殺される。その首は頼朝の陣に届けられ、額に八寸の鉄釘を打ち込まれて獄門に架けられた。頼朝の先祖源頼義、義家 父子が前九年の役で安倍貞任に行った刑の先例に倣ったものである。頼朝はこの残酷極まる意趣返しで、源氏累代の遺恨に終止符を打った。京
に在って一部始終の悲報に接した常磐御前の胸中は 如何ばかりであったろう。

 (郷土史研究家)