| 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。 |
圧倒的な軍事力で宿願の奥州攻略を果たした頼朝だが、勅許を待たず強行した後ろめたさは否めない。大義名分なき戦いで人心を失うことを怖れ、何としても勅許の宣旨を得べく手段を尽くした。これに対し後白河法皇は、義経に味方して配流や解官された側近公卿の復権を条件に、巧みな駆け引きで対処した。常磐御前の生んだ良成も異父兄の義経に同心したため解官させられていたが、以前の侍従職に戻っている。やがて彼は父長成の従五位を越えて従三位に出世。長生きしているので生母常磐の生涯も安泰であったろう。そのうえ常磐が生んだ義経の兄全成は、政子の妹阿波局を妻とし共に実朝の守り役を勤めている。常磐が罪に問われることはあり得まい。無双の美女の名声と御所勤めの教養を生かし、公卿夫人の座を立派にこなした生涯と思える。当時の風習で女性の生死は分かり難い。
なぜか常磐の墓が不破の関にあるのは謎とされる。
父平時忠の助命策として義経の側室となり、頼朝の怒りを買った卿の君の消息も不明だが、父の配流先能登へ赴いたか、京に留まったか。いずれにせよ、高貴の姫として案外幸せな再婚をしたのかも知れない。
一番謎に包まれているのは静御前である。吾妻鏡文治2年9月16日、政子や大姫から多くの重宝を賜り帰洛の途についた││との記事を最後に杳として消息を絶った。全国的にその足跡は伝えられるが確証はなく、静と磯禅司の姿は旅の途中で消え失せてしまう。政子の数々の温情は偽装で鎌倉の常套手段である旅の途次での暗殺か、と疑われる。政子は実妹たちを自在に操り、北条のためにその夫や子も見殺しにさせた。こうした非情な政略家政子の性格の中に、静母娘のミステリーを解く鍵が潜んでいるのではないか。政子と心を合わせ謀略の渦中を生き抜いた妹たちの鮮烈な姿に目を注ぎ、中世女性を実感として捉えてみたい。
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