(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

沼津市(旧阿野庄)の大泉寺境内にある
全成父子の墓標示板

 北条政子には同母の妹が四人あったとされている。吾妻鏡に妹の一人の婚姻が記録されていて足利義兼の室となったことが知れる。養和元年(一一八一)2月1日の条に″足利義兼、北条殿の息女に嫁す″とあり当時の慣習通 り聟入り婚の形をとっていた。義兼の母は熱田大宮司藤原季範の息女で頼朝の母とは姉妹である。頼朝と義兼は揃って時政の聟となり義兄弟になった。まだ旗揚げ直後で鎌倉に落ち着いたばかりの頼朝にとって同族足利氏とよしみを固めるよい機会でもあった。北条氏としても有利な婚姻政策の第一歩になっている。その後足利氏は代々北条氏の息女を正室に迎えることになる。  吾妻鏡には記されていないが、この時期政子の妹は頼朝のお声がかりで次々と武蔵の有力御家人の許に送り込まれた。相手は稲毛重成と畠山重忠で、いずれも秩父氏系の大豪族、豊かな財力と勇武の名声高い若武者であった。互いに重要な政治的布石と心得ての婚姻であったろう。重忠は既に足立遠元息女を妻としていたが、政子の妹が正室の座についた。  政子のすぐ下の妹、阿波局が吾妻鏡に登場するのは建久3年(一一九二)8月9日の条である。″御台所政子が次男実朝を出産。阿野全成の妻室阿波局御乳付けとして参上す″とあり、このとき阿波局という女房名を授かったのであろう。夫全成は頼朝の異母弟で、実兄義経は謀反人として誅されたが彼は阿野庄を与えられ政子の妹を妻とした。母常磐に似た美貌が頼朝のお気に召したようだ。阿波局との仲も睦まじく何人かの子をなしているが、所詮彼女は北条の人であったから終始政子の腹心として行動している。頼朝の死後は憎まれ者梶原景時追放の火付け役を果 たした。だが全成父子が謀反を企むとして誅殺されるのを救えなかった。政子もまた吾子頼家を見殺しにしている。血塗られた惨劇はつづく。

 (郷土史研究家)