(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。

 

鎌倉坂の下海浜公園の実朝歌碑
(世の中は常にもがもな渚こぐ海士の小舟の
綱手かなしも『小倉百人一首第93番』)

 三代将軍となった実朝は京の公卿、坊門信清卿の姫君と婚姻が整った。政子は妹が生んだ足利家の息女を勧めたが実朝は京の姫君を望んだという。詩歌に心を寄せる文学少年は京文化への憧憬が深かったのであろう。姫君も同じ13歳とのことだ。花嫁を迎える使者には容姿端麗で武技にも秀でた名家の子弟が選ばれた。時政と牧の方の一粒種16歳の政範を筆頭に、有力御家人の二世15名が綺羅びやかな出で立ちで上洛した。姫君東下りの行列は華麗を極め、後鳥羽上皇は桟敷をしつらえて出発を見物している。姫君の父は上皇生母の兄なので実朝と上皇は親族となった。そのため実朝は朝廷と幕府の板ばさみとなって自らの命運を縮めることにもなる。
 上洛した出迎えの使者畠山重保と、京都守護の平賀朝雅が酒席で争う事件が起きた。周囲の取りなしで一応納まったものの朝雅が牧の方にざん言したため、翌年の畠山重忠父子殺害を呼び起こす。重保の母は政子の妹、朝雅は牧の方の娘聟である。牧の方は源氏名門の朝雅を将軍に、愛子政範を執権にしたい野望を抱いていたが、その政範が使者の旅途上で発病し京で死亡してしまった。時政夫妻は衝撃と悲嘆で平常心を失い重保憎しの思いが増幅したようだ。牧の方が実朝謀殺を企んでいるのを早くから気付いていた阿波局は姉政子に警戒を促していた。
 姫君が鎌倉に落ち着いて間もなく畠山父子が謀反のかどで誅殺された。同族の稲毛重成の謀略による無実と分かり、重成父子も殺されて武蔵国の二大勢力は一挙に消え失せた。
 政子は待ちかねていたように畠山同類の遺領を軍功の将士に分配し、女房らにまで新領地を施している。続いて牧の方の陰謀も発覚して時政夫妻は伊豆に幽閉された。朝雅は京で獄門に架けられ後鳥羽上皇が首実検をされたそうだ。
(前号写真説明に河野庄とあるは阿野庄の誤りです)

 (郷土史研究家)