| 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。 |
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段葛右の宇津(都)辻幕府跡にある宇都宮稲荷。
この辺に宇都宮邸があった
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下野の豪族、宇都宮頼綱に謀反の企てがあるとの噂が広まったのは、秋風の立ち始めた元久2年(一二〇五)8月のことである。頼綱の正室は北条時政と牧の方の間に生まれた息女なので、時政夫妻の陰謀に加担していたとされ誅伐の命令が下された。頼綱はまず義時に弁明状を届け即座に出家したうえ、もとどりを献じて異心のないことを表明した。義時と政子は、さきの畠山氏同様この際一挙に葬るねらいだったのであろう。しかし頭を丸めた頼綱は蓮生法師と号して京へ隠棲してしまう。彼は京錦小路と嵯峨の小倉山に豪勢な邸宅を構えていた。息女は歌人公卿藤原定家子息の為家室となっているので定家との交流もあり、風雅な京暮しであったようだ。宇都宮一族は秀れた歌人が多く宇都宮歌壇を形成している程である。彼は定家に乞うて小倉山荘の障子に古今百人の名歌を書いて貰った。これが百人一首の起こりとなっている。
巨富と声望を兼備した教養人頼綱には北条氏もうっかり手は出せない。後を継いだ嫡男泰綱によって宇都宮家は幕府の信頼をとり戻している。彼の息女は執権経時の室に迎えられた。泰綱と為家室を生んだ頼綱の正室は、後に頼綱と離婚し47歳のとき62歳の摂政藤原師家と再婚している。頼綱他腹の息女が内大臣源通成室に納まったので負けん気を出したのかも知れない。定家は明月記に、息子の嫁の母親が得意顔でこの婚姻を知らせてきたことを、言語道断と決めつけている。流石政子の異母妹らしい、したたかさと言えよう。
牧の方は政子の死後も生きのびて、京に住み時政の法事など行っている。娘は摂政夫人、孫娘は為家室となった。誇り高き老後であったろう。一方、政子は尼将軍となって君臨した。両者の勝敗いずれに軍配を挙げるべきか。それにしても北条政権のため夫や子を犠牲にした阿波局や重忠室のその後の運命は?
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