| 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。 |
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由比浜大鳥居脇にある
畠山重保供養の宝篋印塔(室町期)
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二俣川で畠山重忠が無念の死を遂げてから5年後の承元4年(一二一○)5月14日、吾妻鏡は重忠後家の所領を安堵した旨を伝えている。その文面からみると決定まですんなりと運ばなかった様子がうかがえる。重忠室はこの時すでに足利義兼の二男義純と再婚して嫡男泰国も生まれていた。義純は所領安堵の5カ月後に35歳で死亡している。人々は重忠の怨霊によるものと噂した。北条氏は祟りを恐れたのか、泰国が重忠の嫡男重保の同母弟に当たるので畠山の名跡を継がせて罪滅ぼしとしたようだ。
由比浜の大鳥居傍に、畠山重保の立派な供養塔がひっそりと立っている。これは重保が、由比浜に謀反人の騒動ありと聞き、おっとり刀で駆け付け[謀反人はどこだ]と叫ぶと「それはお前だ」と多勢に囲まれて惨殺されたという事件を悼んで、後世の人が建立した慰霊の塔である。この時重保の母は吾子の危難を救えなかった。姉の政子や阿波局共々実家のため私情は捨てたのであろう。重忠死後いくばくもなく足利氏との政略再婚に応じたのも、中世女性の割り切った婚姻意識のあらわれと思える。
無実だった重忠誅殺の巻添えをくって、ざん言者ととして殺害された稲毛重成は重忠の従兄弟で、多摩川流域の川崎、稲毛の一帯を押さえる秩父一族の雄将である。政子の妹を室としていたが、その妻に早逝され悲嘆の余り出家して稲毛入道と呼ばれた。彼が亡妻のために相模川の橋供養を行い、その帰途頼朝が落馬して死を早めた出来事は世に知られる。この重成夫妻の息女は公卿の綾小路家に嫁して姫君をもうけながら産死した。謀反人の孫として肩身の狭い思いをするであろうと、政子は2歳の姫君を引き取り重成の遺領を与え、成人後は宮廷の実力者源通親の二男通行に嫁入らせている。その深謀遠慮には舌を巻く。政子の死の2年後、吾妻鏡は政子の協力者阿波局の死を報じた。
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