| 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。 |
阿波局の死を吾妻鏡が報じたのは嘉禄3年(一二二七)11月4日である。「御所の女房阿波局卒去す。武州(北条泰時)の大叔母なり」とあり、泰時が30日の喪に服したことを示す簡単な記述である。死亡年齢さえ書いてないので彼女の生年も不詳なのだ。北条系図には泰時の生母を阿波局としているものもあるが、別人か誤記であろうとされている。阿波局は実朝の乳母、御所の女房の要職を立派に果たしながらも謎の多い生涯だった。
建保7年(一二一九)1月27日、実朝は右大臣拝賀式典の後、鶴岡社頭の雪中で甥の鶴岡別当公暁によって惨殺された。前代未聞の大事件である。最後まで実朝の首を手放さなかった公暁は、その夜のうちに誅された。しかし公暁の首のみが義時の許に届けられ、実朝の首は行方が知れず。首実検に立ち会った泰時は公暁の首は疑わしいと述べている。公暁は頼家の正室辻殿(為朝の孫)の出生なので源氏正嫡の意識が強く、何者かに唆されての凶行であろう。首は二つ共雲隠れしたらしく、事件は永久に迷宮入りしたのである。
乳母であった阿波局はこの惨劇にどう対処していたのか。吾妻鏡は政子が実朝の死を悲しむ有様を詳述するが、阿波局に関しては全く触れていない。だが事件のあった直後、局と全成との間の末子阿野時元の謀反が発覚している。政子は即座に誅伐の軍勢を一味の立てこもる駿河に差し向け、敗走した時元は自殺する。この時も阿波局は政子に同調し吾子の死に動じなかった。実朝は政子や泰時の意に背き反北条の勢力に接近し過ぎて奇禍を招くが、阿波局もそうした実朝を見放していたのであろう。その姉妹はなぜか実子以上に泰時を信頼し支持している。泰時も父義時も出生があいまいで、これが北条氏の泣き所らしい。生母の身分によって運命の岐れるこの時代、遊女、白拍子を生母とした名家の子弟は?
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