| 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。 |
|
討手に追われた範頼が、六浦方面に逃れた
という地名伝説の残る追浜道
|
|
中世の遊女とは交通要路の宿々に居住し歌舞音曲を職能とする集団で、白拍子は男舞とも舞女とも呼ばれ男装して歌舞を演じ、召しに応じて参上する当時の花形であった。いずれも朝廷の保護管理下にあって自由に宮中へ出入りを許されている。王侯貴族に愛され皇子皇女の生母となることも珍しくない。公卿、殿上人にも彼女らを生母とする人物は多く、出世の妨げにはならないようだ。
武家では頼朝の弟範頼が池田宿遊女を生母とし、和田義盛は遊女玉を生母としている。後世遊女ら芸能者は卑賤視されるようになるが、鎌倉時代は現在の社会でスター女優を妻や母にもつのと同様な感覚と風潮であったろう。系図の上では生母を不詳とする出生が通常で、母が遊女であることは、さして引け目にはならなかったと思える。だが、頼朝の例でも分かるように身分高い正室が現れると、その出生男子が正嫡視された。頼朝には二人の兄があり、長兄義平は遊女の出生らしい。次兄朝長は雄族波多野氏女を生母とするが貴族藤原氏女を生母とした頼朝が正嫡とされた。
三浦氏の場合も長男義宗の生母は不詳で、本家を継いだのは次男義澄だった。彼の生母は名族秩父の畠山氏女である。義宗長男義盛はその率直な人柄を三代の将軍に愛されて要職に就き子弟も俊秀揃いで本家を凌ぐ繁栄をみせた。しかし、北条氏の奸謀のわなにかかり、三浦本家の義村にも裏切られて滅んで行く。
範頼も義経に続き謀反人として誅された。彼が追手を逃れて辿りついた追浜の地名伝説は芝居にもなったが今や人々の関心は薄い。義経の生母常磐御前は御所の雑仕女ということで兎角賎視されているが、下級ながられっきとした女官の一員である。きびしい選考試験をくぐりぬけ採用されている。鎌倉では雑仕女、遊女、白拍子の扱いはどうだったのか。吾妻鏡の記述で探ってみよう。
|