(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。


 

幽玄な能の世界に千手の面影を見る

 頼朝から御所の官女に召し出された千手の前(せんじゅのまえ)は駿河手越宿の長者の娘とされている。長者とは遊女を娘分として諸芸を仕込む富有の女主人で、千手は評判の遊女であった。大倉に御所を構えた頼朝は京宮廷の官女制度をとり入れ、御家人の妻室や息女で才色兼備の女性を招集した。官女(女房)として召されると仕度に莫大な費用が掛かるのだが、見返りも大きいとみえ忽ち御所は才媛たちで華やいだ。
 折柄、一の谷で捕らえられた平重衡が鎌倉に召し下されて来た。大仏炎上で悪名高い人物だが、清盛の第四子で母は安徳帝と入水した二位尼時子である。重衡は平家第一の貴公子でその美貌は牡丹の花にたとえられ、とても大仏炎上を行った人とは思えない。対面した頼朝は、彼の優雅な物腰と武人らしいき然たる応対にすっかり惚れ込み、最高の待遇を以て好意を示している。彼の徒然を慰めるため京でなじみの藤原邦通と工藤祐経、それに千手の前を遣わした。元暦元年(一一八四)4月20日の灯点し頃のことである。先ず邦通が歌い祐経が鼓を打つ。続いて千手が琵琶を弾じ重衡は横笛で和して、五常楽と皇じょう急を奏した。五常楽は後生楽に通じ皇じょう急は往生急であると、囚われ人の明日知れぬ身の上をさり気なく掛け詞にたくしている。夜半いとまを告げる千手を留めた重衡は「燭暗うして数行虞氏が涙。夜更けては四面楚歌の声」という項羽と愛妃虞美人との有名な別離の詩を朗詠し、格調高く宴を締め括った。頼朝は立場上雅宴に同座出来ず残念だったと千手に衣裳などを届けさせ、滞在中は千手を側近く召し置くよう取り計らったという。
 奈良で重衡が刑死した三年後、政子付女房だった千手は御前で突然絶入して果てた。人々は重衡への思いによるものと死を傷んだ。鏡に見る遊女中出色の名花といえよう。次は舞女微妙について紹介したい。

 (郷土史研究家)