(題字:高橋幸子)
INSIDE OF AZUMA-MIRROR

 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。


 

北条政子が開いた亀ケ谷の寿福寺

 野球、ゴルフ、サッカーなど球技は人々を熱中させるスポーツだが、鎌倉時代にも蹴鞠(けまり)という球技に取り付かれた人物がいる。二代将軍頼家で、政務を放てきして連日蹴鞠に興じる彼の姿を、吾妻鏡は詳しく報じている。蹴鞠は和歌や雅楽と共に宮廷の式典に欠かせない教養文化で特権階級のステータス・シンボルでもあった。
 京の公卿によって鎌倉御所にもたらされると、頼家は忽ち虜となり後鳥羽上皇に師範者を申し請ける程の打ち込みようだ。メンバーはお気に入りの近臣たちで鞠会の後は必ず宴会。その時召されたのが京下りの舞女微妙(みみょう)であった。人々はその秀れた技芸に感嘆し、更に身の上話に涙した。舞女の父は右兵衛尉為成と名乗る、今でいえば中央官庁の三等官、課長級の身分だったという。ざん言によって入牢するが奥州へ売られる囚人の仲間に入れられてしまった。配流ならとも角売られてしまっては帰る望みはない。母はショックで死亡。7歳の微妙は自由に旅の出来る白拍子の道を選び修業に励んだ上、父の生死を知るため奥州を目指し、東国まで辿り着いたとのこと。頼家は使者を奥州へ送り、父を探し出すと約束を与えた。
 この噂を耳にした尼御台所政子は御所に出かけ微妙を召すとその技芸と孝心に感じ入り、自らも飛脚を遣わして父の安否を探らせることにした。だが、微妙の父は既にこの世に亡いことがわかり、悲嘆にくれた彼女は寿福寺の禅坊で出家を遂げた。政子は住居を与えて自分の持仏堂に仕えさせている。
 微妙には和田一族の古郡保忠という愛人があった。その彼が自領の甲斐国に帰った留守中の出来事であった。急遽鎌倉へ戻った保忠は思わぬ出家を憤り、寿福寺に暴れ込んで政子の処罰を受けている。持蓮尼と号した微妙は、その後も政子に仕え続けたという。鏡に拾った孝女微妙の挿話。

 (郷土史研究家)