| 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。 |
|
中世女人幻想=岡本茂己(幸工房)
雑仕女などの平常衣、長い髪を後ろで結んで、
作業に対応する場合もあるようだ
|
|
一の谷合戦に大勝したものの木曽義高誅殺・義経独断任官など諸問題が続出している鎌倉幕府は、公務を司る公文所を御所内に新設することを急いだ。元暦元年8月24日上棟式、28日に門が立ち10月に入って吉書始めの儀式が厳かに行われた。大江広元が別当(長官)に任ぜられ京下りの能吏が寄人として参入、武家からは足立遠元と新参の甲斐秋家が起用されている。公文所の初公務は、相模国中の神社仏閣に対し領分守護を計るということで、頼朝の信仰心を諸人にアピールしている。
12月24日、公文所に雑仕女3人を置く、と吾妻鏡は報じている。新設の役所に雑用係りを雇った程度に軽く見過ごして来たが、この採用は記録に値する人事であることを知らされた。別当大江広元が試験官となり厳しい選抜をしているので難関だったと思える。雑仕女は役所内外の申次役として外交的な能力も要求されており、合格者は優秀な人材なのだ。鏡には雑仕女に関する記事は24日の項のみで、役職の詳細をうかがう手立ては全くないのが、もどかしい。
雑仕女の代表のような存在が義経兄弟の生母常磐御前である。彼女は九条女院(故近衛帝皇后)呈子の周辺を彩る雑仕女として千人の美女の中から選び抜かれた絶世の美女であった。女院の取り持ちで源義朝と結ばれるが、運命の暗転から義朝の敵平清盛の寵を受け一女を生んでいる。やがて上級貴族の一条良成の正妻に納まって、従三位能成以下数子を得た。だが、その余りにも数奇な人生故か彼女には卑しい身分の雑仕女というレッテルがつきまとう。しかし雑仕女の京宮廷における実態を歌人藤原定家の明月記で知ることが出来た。摂政九条道家の姫君が後堀河帝に入内する豪華パレードに、紅梅唐綾のぜい沢な正装で連らなる雑仕女6人のユニークな名前まで記載されているので注目したい。
|