(題字:高橋幸子)
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 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。


 

輿に乗る女房装束の女官
(京都時代祭の行列より)

 藤原定家の明月記、寛喜元年12月29日の項では、同じ月の16日に行われた後堀河帝の中宮入内に関する詳細を綴っている。雑仕女について「雑仕六人、当色を賜る。弥孫女・曽孫女・姓女(巳上太子)・千寿女・祇寿女・葵女(巳上蓮)。小舎人(ことねり、下役人)六人召し付く」とあり、その出自によって呼び名のニュアンスが違うようだ。美青年の小舎人も付き従っている。当色を賜るとは禁色を許されることで、宮廷では身分に応じて着衣の色が決まっていて紅と紫は禁じられていた。この色の着用を許されるのは名誉とされる。この日の6人は紅色を許されて紅色の五ツ衣と単衣、表着、唐衣は紅梅色の唐綾を着ていたようだ。定家は近年上中下の隔てがなくなり、ぜい沢になったと嘆いている。中宮噂子(じゅんし)は自身が召使う雑仕女6人と他にも多くの高級女房(官女)に傅かれることになっている。
 定家の息女たちは才女揃いで乞われて女房に召し出されているが、噂子入内の時も一人が中宮の側仕えに懇望された。女房の後見をするには衣裳の用意だけでも莫大な費用がかかるが断る訳にはいかない。女房装束として入内の日に十八具を萌木色の唐衣や紅梅唐草の表着、裳等。披露の日にも同様の十八具の数々を揃えねばならず頭痛の種、またこれまで貴重とされた唐の錦が京の織り手によって模作が成功し、大量生産が始まった。これも身分の隔てを失うもとと、68歳の定家はお気に召さないようだ。だが彼のお陰で雑仕女に関する知識を得たことを感謝いたしたい。
 京の貴族たちは、ぜいを尽くした日々を過ごしているが、この寛喜年間は全国的に大飢饉が続き、京も鎌倉も路上に飢餓死人の山が出来る有様。北条泰時は政治の不備を痛感し、武家の法令「御成敗式目」を制定して理非を正し、女性の所領と財産権、姦通罪科などにも及んでいる。

 (郷土史研究家)