| 吾妻鏡は約150年続いた鎌倉幕府の、頼朝挙兵治承4年から文永3年までの87年間の記録です。関東の歴史について後世の鏡とする意味で名づけられました。私は鏡の中の気になる女人像を現代の目でとらえ探ってみます。 |
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長坂の無量寺は建武5年大友一族の開いた寺で
近くに大友氏の居舘址も発見されている。
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\名月の出づるや五十一ケ条\これは芭蕉が御成敗式目を讃えて詠じた句といわれている。江戸時代、式目は寺子屋の教科書に用いられ庶民にまで浸透した。多くの木版本や絵入本が刊行されベストセラーといってもよい。漢文で書かれてはいるが従来の難解な大宝令と違い、武家の法令は分かりやすく道理に適った。貞永元年に発布され貞永式目とも呼ばれるが、諸人は御成敗式目の名に親しんでいる。
式目は女性に対する配慮が行き届いていることで知られる。起草した北条泰時は7年前に世を去った敬愛する伯母政子の意向を尊重し、女性の財産権や所領知行の権利を守ることに気を配った。当時の武家女性は親や夫から所領を譲り受けるだけでなく、女性自身の能力が評価されて領主職や地頭職を与えられる場合も多かった。男性に劣らぬ女領主として領民の上に君臨している。式目には、夫と死別して後家尼となってからの相続や再婚の問題、夫の罪科への連座、また離婚や姦通の問題等、細目に亘って条例が定めてある。
その式目との関わりで女性史上特筆されているのが大友能直の後家尼深妙。彼女は夫の死の直前、夫から
後継者として財産権を全て任されている。そして惣領や他腹の子弟を差し置き、42年間も広大な所領の支配権をもち続けた。知行地の経営、子女の教育、財産の分与にも並々ならぬ手腕を見せている。夫の能直は頼朝の殊寵を受け落胤かと噂された人物であるが、養父中原親能から九州豊後国の守護職を譲られ、子孫は豊後に移封し繁栄した。本来の所領である相模国大友郷も、三浦の長坂郷も鎌倉末期まで一族が支配した。長坂は大友家と婚姻した三浦女が自身の所領として持参したとされる。このように男女対等の時代でありながら、離婚権は夫のみにあり父親に対しては絶対服従を強いられて、悩む女性は多かった。
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