1853年7月14日、6日前に浦賀沖に来航したペリーが、フィルモア大統領からの国書を幕府に引き渡し、江戸幕府は200年以上にわたって敷いてきた鎖国政策にピリオドが打たれる日であった。

 15艘のカッター(当時バッテイラと呼んでいた)に分乗した海兵隊300人が警固のために上陸し、音楽隊の演奏に合わせて、隊列を組んだ行進が始まった。

 幕府側は江戸湾警備の任にあった彦根、川越、忍、会津の各藩から3000人以上が警備していたが、この警備の武士が一様に驚きを隠せなかったことがあった。

 それは、海兵隊の行進であった。先頭の指揮官の指図ひとつで、全員が右を向き、回れ右ができることと、膝を上げて、しかも右足が前に出ると左手が前に出、左足が前に出ると右手が前に出るという器用な歩き方に驚きを隠せずにいた。

 アヘン戦争で大中国が敗北し、その情報が日本に入って来ていただけに、欧米諸国の強さの真髄を見せつけられるような思いであった。
 その証拠に、この後まもなく、藩兵の教育に隊列を組んだ行進が取り入れられるようになった。

 これは明治維新後には学校教育にも受け入れられ、現在の私たちに受け継がれて、全くの常識的なことになったが、これも近代日本の政策に育まれた結果 である。

 近代日本は様々な分野で、日本人のスタイルを大幅に変えることになったが、そのいくつかはこの横須賀からのものであった。こうしたことを掘り起こし、開国以来何がどのように変化したのかを見、その変化は私たちにとって本当によかったのかを探ることで、21世紀への糧にしよう。


 日本船に乗っている案内役は、湾曲した海岸の真ん中にある上陸地を指さした。そこには砂と藁を詰めた袋で作った臨時の埠頭が海岸から突き出していた。

 まもなく先発のボートが埠頭に着き、一行を指揮していたブキャナン艦長が陸地に降り立ち、日本王国に上陸した最初のアメリカ人となった。海兵隊のゼイリン少佐がすぐその後ろに続いた。いまや残りのボートも着岸して、乗組員が上陸した。海兵隊(100人)は埠頭を行進して、海に向かって両側に整列した。次に約100名の水兵が上陸して同じように隊列を作り、最後に2隊の軍楽隊が上陸した。アメリカ人の総数は水兵、海兵隊、楽士、士官を合わせて約300人に達した。それほど恐るべき軍勢ではないが、平和な行事にはまったく十分な人数であり、その溌剌として強壮な将兵たちは、小柄で弱々しく見える日本人と強烈な対照をなしていた。