三崎の油壷・荒井浜への遊歩道へ入る。頭上高く椎の木が生い繁る道は、右手は5メートル程の土手が続き、左手は崖になっていて木の間越しにとろんとした油壷湾が見えている。
かつて…、北条早雲と三浦道寸の凄絶な戦いの舞台となった古新井城はまさにこの地である。今も目にする「引橋」や「千駄矢倉」の文字は、約500年も前の名残りを示すものだ。この千駄矢倉、「本丸の巽隅崖下にある洞穴なり」と新編相模風土記稿にもあり、広さは67坪。そこには常に米穀を貯えていた。早雲との戦いでは、三浦方の3年にわたる籠城により米はつきてしまい、三浦は敗れたのだ。
さて、興味深い岩穴がもうひとつ。前出の新編相模風土記稿でもちらりと触れている弁天窟である。「千駄矢倉の南峭壁に在厳石を厥て階段を造り、昇ること十間許…」のそこへは、荒井浜の海辺に降り、左方向へ岩を伝いながらぐるりと廻り込む。ふと崖上を見ると、平べったく岩のすき間が開いている。ひと一人がやっと潜って入ることのできる大きさだ。運良く案内の人に恵まれ、這うように入り込むと、中は真の闇、懐中電灯とろうそくの光ではまだ暗い。洞内は予想外に深く、岩を降りたり登ったりしながら約20メートル、行き止まりの場所がぽっかり広くなっていた。照らす光の先が一段高くなっていて、そこには50センチに満たない石像が浮かび上った。「ぞくっ」とするのを押さえ、良く見ると下ぶくれのお顔に着物はゆったりと前を合わせて素朴な容姿を伝えていた。
だがこの弁天像の台座はいかにも大き過ぎ、石像とはちぐはぐだ。この台座には右に「享保癸卯年五月十五日」、左に「網代村講中」とあると、三浦市の郷土史家、松浦豊氏から伺った。
いずれにしても時の止ったような岩洞の奥深く、人知れず手を合わせた先人たちがここにいたのだ。それはこの小さな弁天様のみがご存知なのだ。