(2000-3月号)
  伊豆に住む私の祖母は、アメリカ某所で、知る人ぞ知る有名人である。彼女を局地的有名人に仕立てあげたのは、友人のエイドリアンで、昨年夏カリフォルニアを訪れた私は、方々で「ああ、あのおばあちゃんの!」と言われ続けたのだった。  日本に留学中のエイドリアンが初めて私の家に現れたのは、三年ほど前、知り合って間もないころだったと記憶しているが、人なつっこくてチャーミングな彼女は、瞬く間に家中の者を魅了した。大きな花束を抱えて玄関に立つうつくしい人を目にし、弟は照れてもじもじするばかり、母は緊張を押し隠すようにとり とめのない不自然な動きを 見せ、少し遅れて帰宅した父にいたっては、入浴後なぜか改まった外出着をまとって現れ、居間にいる全員をぎょっとさせたのだったが、彼女の柔らかい笑顔に接する誰もがそうなるように、初対面 の空気はすぐにうちとけたのであった。  私に倣って彼女も私の母を「ゆっこさん」の愛称で呼ぶが、そのうちエイドリアンと仲良しになったゆっこさんは調子に乗り、五月の連休、私を素通 りして彼女を故郷に誘った。授業等の関係で都合のつかない弟と私を置いて、親たちは出来立てのアメリカの友人を伊豆に連れ去ったのだ。 当地では彼女をめぐって数多くの愉快な事件があったそうで、たとえば緊張のあまり口をきけずにいた祖父カズトヨは、勤め先に遊びに来た彼女に「ハーイ、カズ!」などと英語調で話しかけられ、真っ赤になったところが可愛らしかったとゆっこさんから聞かされた。その人気ぶりは尋常ではなく、その後親戚 一同、それぞれがひそかに彼女の人柄を偲んでいるようだ。  一方、この伊豆の人気者の方は、わが祖母にすっかり参ってしまったらしい。おばあちゃんかっこいい、と写 真を眺め、貰ってきた祖母手作りの梅干しを大事そうに食べたりしていた。  帰国した彼女は、とあるパーティーで催された料理コンテストで祖母に教わった特製のキンピラを作り、優秀な成績を収め大評判になったという。そのキンピラの味は「おばあちゃん」を語るエイドリアンの声と共にパーティー参加者の舌に深く刻まれたらしい。  旅先で会う人ごとに「キンピラのおばあちゃんの…」と修飾され続けた私は、彼らの頭と目と口の中でキンピラに重ねられていたに違いなく、キンピラになってしまったような気分だったと言うと、祖母は「アメリカにもっと梅干し送ってあげよう」と得意げな顔で、はにかんだように笑った。   

(写真・果胡みらい)

 

   

 自分の母を「おかあさん」と呼ばなくなってから数年がたってしまった。  きっかけは、二十歳をすこし過ぎた頃、私の誕生日に母が言い放った一言にある。母は私に「もうこれからは、おかあさんとは呼ばないで」といったのだ。  今後は私や弟の母親としてではなく、ひとりの人として生きようと思うから下の名前に「さん」をつけて呼んでね、といった台詞をききながら、一瞬、「もしや父親のほかに恋人でもできたわけ(それならそれでもいいけど)?」と訝しんだ。だが、恋愛にうつつをぬ かす私を、よくやるよねと、あきれた様子で、つねに超然とした態度で眺めてきた彼女は「あんたじゃあるまいし、そんな面 倒なことはもうごめんだから」と私の疑問を一笑し、私も子離れしなくちゃいけないし、とつぶやいたのだった。  だからいま、私は母を「ゆっこさん」と呼んでいる。なぜ彼女が自分の呼ばれ方についてこだわったのかは、わからない。ただ、私には、母親の子どもに対する感情や役割を、学問的な言葉を使って、否定的に語り意味づけていた時期があって、その頃、「母親」という存在に向けてぶつけてしまった心ない言葉の数々を憶いだし、すこし寒々しい気持ちになった。  それにしても、「もうおかあさんと呼ばないで」といった母は明るく、意志そのものを感じさせる言葉はどこまでも強くて、そのときの彼女はとても魅力的だった。「わかった、じゃあ、これからは、ゆっこさんと呼ぶね」とだけいって、どうしてそんな気持ちになったのかを訊くのはもうすこし後にしようと、こちらも明るい気分でそう思った。  実は、そのことを母にはいまだ、きちんと訊くことができずにいるのだが、それから私は母の意志に対して、私なりの敬意を込め、彼女を「ゆっこさん」と呼び続けている。母の方は、本当にちょっとしたはずみで、一人称に「わたし」ではなく「おかあさん」を使うこともあるのだけれど。  ときどき、とてつもなくつらいときや耐えられないような痛みを感じてしまうようなときに、気づかずにふと、「おかあさん」という言葉を漏らしてしまうことがある。そんなとき、私の口からこぼれたはずなのに、その言葉が私からはとりかえしのきかないほど遠く隔たったところにあるようで、その一瞬はなんだかひどく切ないような気分になる。

 

 


五月が来ると
桃色に透いた私の指にはけむりのやうな真珠が光りだします
髪には潮の匂いがみなぎって 
星の色した藻の花が
ほんのりとかをります
     『五月の女』
            深尾須磨子

 青葉のみずみずしい、透明感のある五月の日曜日、隣町まで髪をトリートメントしてもらうために電車に乗った。海の見える美容院があるから。高台の緑の多い静かな住宅街の駅のすぐ裏にある。
 大きなガラス窓から見える水平線が心を落ち着かせる。白いヨットが出ている。よく晴れた日には、大島まで見えるそう。台風のあとは海は本当に青く見えるという。
 まずシャンプーしてもらい、寝ながらトリートメントをしてもらう。気持ちよくてつい、うとうとと眠ってしまう。鏡の前で、髪をブローしてもらうと、自分が主人公になったような気がする。
 ちょっぴりぜいたくだけど、気持ちがなごやかになって、いいセラピーになるみたい。
 ずっと前、占いを見てもらって、「髪をきれいにしなさい」と言われたことがあった。女性は髪から、幸せになれるって…。
 マリンスポーツをやっていたせいか、髪はすっかり痛んで、茶色くなってしまった。潮の匂いはみなぎっていたけれど。
 占いの人に言われてから、髪は気をつけるようになった。髪をきれいにしても別 に恋人ができるようなこともなかったけれど、爽やかな気持ちで毎日を過ごせる。
 髪を肩まで伸ばして、何年になるだろう。学生時代はほとんどショートにしていたっけ。あの頃は海に入ることもなかった。
 長い髪だとアレンジが楽しくて。後ろで、三つ編みにして、真珠のついたピンを挿したり。アップにして、星の形をしたかんざしを挿したり。秋には拾った木の実をつけたバレッタでまとめてみたり。
 ときには、花をいけてるときに落ちた青いデルフィニウムの花を髪につけたり…。
 美容院の窓からは沖の方の海しか見えないが、海岸付近ではサーファーが、波に挑戦するのだろう。
 髪を整え終わって、ドアを開け外に出たら、初夏の風が流れてきた。シャンプーの匂いが心地よい。
 五月の海からの風に髪を梳いた…。

 

毎年12月になると、小さなアパートのドアに手作りのクリスマスリースを飾る。友達の家に行った時、素敵な手作りのリースがかかっていたから。赤いトウガラシと、ベイリーフの葉を糸で結んだだけのものだけど、シンプルなさりげないリース。

 私のアパートのドアを飾るのは、赤と緑色のクリスマスリース。輪の蔓にモミや杉の枝を挿し、近くで拾ったドングリや松ぼっくりをつけ、サルトリイバラをからませたもの。仕上げは外国製の赤いリボン―ソリに乗ったサンタクロースが描かれていて―それは幼い頃読んだ絵本のクリスマス。ある年のこと、好きな人ができて、海を見たいというので、私は車を運転して、彼と海沿いの道をドライブした。

 海につきでた駐車場で広がる海を見て、彼がポツンとつぶやいた「汚い海だな」。帰る道は渋滞していて、車の中では交わす言葉もなく、二人でいても淋しいということを初めて知った。その人とはそれっきり…。

 その年の12月は、小さな、海の匂いのするリースを作ってみた。輪になった蔓に巻き貝や、海草のかけら、波のいたずらで丸くなった白や水色のガラス。それらはいずれも葉山の海からの贈り物…。それに指先からすべり落ちた青いビーズをボンドでつけて、水色のほんのり透き通ったオーガンジーのリボンで結んで、ドアに飾った。

 クリスマスが終わると、ひとりで海辺に出て、持ってきたリースの飾りをひとつずつはずし、巻き貝やガラスを海にそっと帰した。夕暮れ時で海は夕焼け色に染まっていた。でも冬の陽は短くてすぐに夜になってしまったけれど。

 

 この間、花屋で夕焼け色のばらの花を見かけた。今年はちょっぴり奮発して生花のクリスマスリースを作ってみることにした。

 ばら、フランネルフラワー、スノウホワイト、淡い緑の色のままのアジサイ、花屋をいろいろ回って、好きな花だけを少しずつ求めて。近くで採った黄色のセンダングサ、駐車場の片隅の赤い野ばらの実…。

 丸いオアシスに色合いを考えながら挿していく。夕焼け色のばらの花のやわらかな甘い香りは、少し切なくて。でもはなやいだ気持ちになっていた。

 毎年、クリスマスには手作りのリースでアパートのドアを飾りたい。たとえ、イブの日に訪れる人がいなくても…。

(写真・果胡みらい)