| 岡本文男(大楠山自然公園整備組合) |
| 大楠山に夢にまで見たまさかの司馬遼太郎先生がお越しになりました。 大楠山は三浦半島では一番高い山で標高242m、その景観は360度の景勝地であります。しかも、関八州が一望できる『低くて高い日本一の山』との名言を残して昭和の初め、神奈川県立公園の指定を受けました。その後、戦時中には直前要塞地帯に利用され、一時期、一般 人は立ち入りできない大事な役目も果たしました。戦後はバブルが始まり、大手の不動産業者が山を買いあさり、古木を切り倒し、山を削り谷を埋め始めた。この光景を悲痛な思いで目の当たりにした地元有志と何度となく語り合い、<大楠山崩壊>を阻止すべく、組合を結成したのが昭和58年(1983年)でした。 古く大楠山は、鎌倉時代に三浦大介の拠点・衣笠城から芦名城に通ずる本道であった。その歴史に残る古道の草刈清掃を手始めに大楠山平の約8000坪に春は「菜の花」、秋には「コスモス」を植栽しました。その大楠平の一角には建設省の電波雨量 計塔があり、その敷地の管理もしております。この施設は関東一円の貴重な気象情報を早期に送信し、関東地方を災害から守っている。 | ![]() |
| ある日、衣笠城址からの古道を整備している時に司馬遼太郎先生がお見えになった。すぐさま飛んで行きましたが、なにせ初版の「龍馬が行く」を夢中で何度も読み返した私としては、本物の龍馬と出会ったほどの衝撃と感動が体中に走ったと言うのが偽りのない気持ちでありました。 時は1 月 5日で、その時期、残念ながら菜の花はまだ小さくて開花にはほど遠い感じでしたが、すくすく育っている可憐な菜の花の様子を見て満足であったと思われます。先生はことのほか菜の花を愛されていたご様子で、私たちが誠意を込めて育て上げた菜の花をご覧になっていただいたことは私たちの大きな喜びでした。かねてより大楠地方は、昭和の初めから菜の花の特産地で東京市場の 8 割は大楠山周辺から出荷していました。3月の雛祭りに合わせて栽培したわけです。 平成 4 年、菜の花畑の手入れ中に偶然、天皇・皇后陛下がお近寄りになりご挨拶くださった。その時も心中からこの大楠山の整備をしてよかったと痛感致しました。私たちはこの喜びを記念樹と記念碑を建てることにし、碑には中国の司馬遷の史記を参考にして三法、四誓願の思いを込めて記した。ところが意外な事に司馬先生のペンネームの経緯を聞くと、司馬遷に遠く及ばないと言う思いを込めて「司馬遼太郎」とされたとのこと。期せずして、司馬遷の心をとの思いが同じであったことにまた、驚きでした。 大楠山の国定公園運動を始めてもう20年になります。衣笠城址口、芦名口、秋谷口、阿部倉口からの約10kmのハイキングコースの古道の清掃整備を行っておりますが、その中で思いがけない事が判明してきました。その一つに引地ガ沢があります。これは九州の大友氏の飛地で、少弐が九州より隠遁した所という。芦名城の為清は会津の城主となって奥州に下る。その会津地方に少弐の末裔が健在する。 | |
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平家滅亡の際、戸塚郷・武藤資頼が隣国の梶原景時の取りなしで三浦義澄の預かり人となる。二代・頼家の将軍職式典が行われたが、その指揮ぶりが見事であった。のちに頼朝によって九州太宰少弐に任ぜられて以来、少弐を名乗っていた。その少弐資能、経資父子が蒙古襲来で蒙古の主将に重傷を負わせ、船を焼き払ったりの武功を立てた。少弐政興の代で九州を去り、一時、大友の故地・引地ガ沢に身を置いたと思われます。
また、城址口の帰路左手に小さな祠がある。近づいてみるとか建保 3年、鎌倉にて和田合戦があった。義盛に加勢した武次郎義国がただ一騎、この地から鎌倉に馳せ参じて戦い討死にした。里人がこれを哀れんで、塚を築いて霊を弔ったという。当時は倫理に代わる廉恥という感覚を強く持っていた、これが一騎塚である。
「街道を行く」の中で、『頼朝が日本を初めて統一した。その第一の功労者である三浦一族が完膚無きまでに滅亡の憂目をみた、なぜか大楠山で関八州を望みながら思う。……』
人的な理由、地理的な理由、頼朝の心の内…。司馬遼太郎先生にはすでに解答が出ていたのでしょうが、北条氏にとって鎌倉と伊豆は遠かった。そして、猜疑心が…。さらに三浦氏には天下を統一する器にかけていた。
(岡本 文男) |
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