〜岡田嘉子と横須賀〜
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高地 光雄

 岡田嘉子が明治の末期から大正の初期にかけて3年余り横須賀に住んでおり、諏訪小学校に通学していたことは、あまり知られていない。
 そして70数年振りに横須賀に帰って来て、一日ゆっくり遊び「真実一路の旅なれば 鈴をふりふり今日も行く」と記した色紙を残してソビエトに帰って行った。
 岡田嘉子は、大正14年10月の映画女優の人気投票でトップとなり、日本の代表的な映画スターとしての地位を決定的なものにし、大正末期から昭和初期にかけて全国的なファンをバックに大活躍をしていた。
 その岡田嘉子が、日中戦争勃発で風雲急を告げる昭和13年1月3日に、突然に愛人の杉本良吉と当時日本領土であった樺太鉄道の終着駅・敷香から馬そりに乗ってソビエト領に逃亡し、亡命したことはあまりにも有名な話である。
 嘉子の父、岡田武雄はペンネームを緑風と言い、明治38年頃に横須賀の公正新聞の編集長に迎えられ、岡田一家は横須賀に住むことになった。
 父武雄と母ヤエ、嘉子の三人が最初に住んだのは浦郷町だったようだが、間もなく現在の上町の中里稲荷の付近に住み、そこから幼稚園に通い後に、当時緑ヶ丘にあった諏訪小学校に通学した。
 嘉子は5歳の頃から新聞や雑誌を自由に読んでいたと言うから聡明だったようである。
 諏訪小学校には、一年の二学期迄通学し、緑風が東京の新聞社に変わることにより学校を京橋の泰明小学校に転校している。
 嘉子が諏訪小学校に通学していたことは、同校に保管されていた学籍簿で確認されている。
 岡田緑風は、公正新聞を編集するかたわらに「三浦繁昌記」(明治41年7月刊行)を発刊しているが、この三浦繁昌記は昭和52年7月に自治研究所の加藤勇(亡)さん達の手により復刻刊行されたが、この中の一冊が嘉子を横須賀に迎える切っ掛けとなったことは後述する。
 公正新聞は明治34年11月25日の創立となっており、当初は旬刊で週刊・隔日刊となり明治39年に日刊となったとされているから緑風が日刊にしたのかも知れない。
 公正新聞の思想は政界革新派に最も近く、県政刷新派の中堅と目されていた。事実、緑風は筆過事件で一年間入獄した。
 この間、生活に困った妻のヤエは、実家の兄のもとで覚えた写真乾板修正技術で大滝町にある松岡写真館の乾板修正を下請して内職をしていた。
 嘉子の記憶によれば、幼稚園に通っていた嘉子は、母に内職で出来上がった乾板を風呂敷包で背負わされて平坂を下り、松岡写真館に届け、次をもらう間を松岡写真館の前のドブ板で遊び、夕方になった時などは写真館の人に家迄送ってもらったそうである。
 岡田緑風は明治42年6月22日付で公正新聞を退職している。(続く)


(元郷土資料復刻刊行世話人代表)