〜岡田嘉子と横須賀〜
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高地 光雄

 岡田嘉子の父、岡田緑風は明治38年頃に横須賀の公正新聞の編集長に迎えられ、嘉子と母ヤエの3人は横須賀に住むことになった。
 最初は浦郷町に住んだが、間もなく横須賀の上町の中里稲荷の付近に住み、そこから幼稚園に通い、明治42年4月に当時緑ヶ丘にあった諏訪小学校に通学した。
 岡田緑風は、公正新聞に在籍中の明治41年7月に名著と称される「三浦繁昌記」を発刊したが公正新聞の筆過事件で一年間入獄してしまう。家計に困った母ヤエは横浜の兄の家で憶えた写真乾板修正の内職を大滝町の松岡写真館(現存)からもらって生活の糧とした。
 嘉子の話では、母に内職で出来上がった乾板を風呂敷包に背負わされて平板を下り、松岡写真館に届け、次をもらう間松岡写真館の前のドブ板で遊び、夕方になった時などは、松岡写真館の人達に送ってもらったそうである。
 嘉子は父の都合で明治43年1月に日本橋の泰明小学校に転校した。(以上前号)

 さて、時は流れ、昭和47年11月13日に時の首相の佐藤栄作や多くの関係者の働きによって、ソビエトの了解がとれて、当時の東京都知事・美濃部亮吉が私費で嘉子に航空券を送り、34年振りに岡田嘉子は日本に帰ることが出来た。
 そして第二回目に帰って来た時に自治研究所の加藤勇(亡)さんが、嘉子の父が編集して刊行した「三浦繁昌記」を持って嘉子に会いこれを贈呈した所、嘉子には三浦繁昌記の記憶は全くなかっただけに、その喜びはひとしおのようであったそうである。
 そして横須賀の記憶がよみがえり、一度行って見ようということになり、昭和57年7月19日に80才となった岡田嘉子を70数年振りに横須賀に迎えることになった。
 当日は、午前中は少し雨が降っていたが、嘉子が横須賀に着く頃は雨もあがり、有志16人がワシントンホテル(現セントラルホテル)の三階ロビーに集合して嘉子を迎えた。
 九階の食堂で嘉子を囲み昼食会を開いた。嘉子が乾板を背負って行った松岡写真館の社長夫妻も出席し、自治研究所の加藤勇さんの進行で話ははずんで楽しいひと時をすごしたが、80才とは見えない若々しい岡田嘉子を迎えた時は全員感激でいっぱいであった。
 昼食後、中里神社、緑ヶ丘の旧諏訪小跡、諏訪神社そして松岡写真館、現諏訪小学校となつかしいコースをめぐり三時すぎに多くの思い出を残して帰って行った。
 松岡写真館の前では当時のドブ板の様子がそのまま残っており、なつかしそうに眺めていたり、諏訪小学校の校長室では明治43年1月の自分の学籍簿の原本を見てびっくりしたり、学籍簿のコピーをお土産に大変満足をされたようである。
 岡田嘉子は再びソビエトに帰り、平成4年2月10日午後3時に、モスクワ中心部にある自宅で90才の生涯を全うした。
 岡田嘉子が横須賀に帰って来た時に出席者の皆さんに書いた色紙は「真実一路の旅なれば 鈴をふりふり今日も行く」であった。
(終わり)

(元郷土資料復刻刊行世話人代表)